橿尾正次×土田ヒロミ 対談を終えて

橿尾作品はかわいらしくまあるいやわらかさを持つ。
万人に愛され角のない人懐っこい有機物のようなおももち
「中身があるようで、実はからっぽ」と本人の言葉がよく引用されるが、その言葉すらも深く、さらっと芸術作品の真髄を語る印象があった。

今年の7月、橿尾さんは3年かけて作品集を出版した。
現在85才。1960年代の初期作品から近作まで半世紀を振り返る作品集だ。
撮影は、今庄生まれのカメラマン・土田ヒロミさん。

ご縁あって私は橿尾正次出版記念のパーティに呼ばれ、お二人を前に対談の進行をするという大役を務めてきた。
私は進行を務めつつも「あっ」と気づいてしまったこと、を書き留めたいと思う。
おそらく会場の皆さんも「やっぱり?」と思ってしまったこと、だと思う。

笑ってるけどエロ発言。Photo:MORISE P

土田さんは打ち合わせで私とお会いしたときから「橿尾作品を自然に放ち、壊れるか壊されるかどうなるのか。融合するのかしないか、それをみたかった、試したかった」と一貫して話していた。それはディレクター土田ヒロミの挑戦でもあった。今となれば橿尾作品を変える確信があったのかもしれない。

この試みは、橿尾作品の、長らく隠されていた部分を露出させてしまったようだ。
土田ヒロミのファインダーを通して、見てたもの、映ったもの。
それは橿尾作品はエロティシズムに満ち溢れていた、というものだ。

本作品集の代表作「茶色い奴」が最たるものであろう。
6メートルほどの茶色の円筒を、刈り取られたばかりの田んぼに突き立てている。
土田さんは「あの茶色のペニスの写真」と指示をしていた写真だ(チラシを作るときに作品名が浮かばず、土田氏が勝手に命名、私も「あ、あれですね」とすぐに分かっちゃったけれども)。

問題作「茶色い奴」1998年作。photo:IWAMOTO TAKASHI

この作品は、仕上がってみると「男性の象徴としか思えない」作品写真になってしまった。いや最初からそうだったのだ。
冒頭の「かわいらしさややわらかさ」ではなく「力強さや生命力」があふれる茶色い奴。
実はこの作品、もともとは20年前に富山県で発表した作品で、かつ上からぶら下げるタイプ。それを、地面に埋め込み立たせる。妙齢の男性二人(橿尾さんとカメラ助手の水谷内さん)が後ろで支えている。背景には枯れた秋山。電線など人工物がひとつもない中で撮られた一枚。なんとも深い。

じつにエロティック。

土田の写真から橿尾が暴かれた、と言っていいだろう。
このくだりを受けて、橿尾さんは「私の作品の中には、男性や女性のシンボルをモチーフとして見えるものもある」と発言。彼が性的な意味合いを認めたことで、会場は一気にあたたまったように思えた。

事前の打ち合わせでも「そう思って作っている気はないが、そう見えてしまうこともあるし。実際そう思いながら作っているかもしれない」と橿尾さん。
そして対談終了後、土田さんは「橿尾作品が性的な意味合いを持つことを、橿尾さんがようやく認めてくれたことに撮影の意味があったのかもしれない」とポツリ。土田さんの犯した功績はとても大きい。土田さんはひとの作品をこうして撮影するのは初めてだとも言っていた。

橿尾さんはホワイトキューブを想像して作品を作っているとも話していた。
ことあるごとに、南条生まれの土着の作家と言われつつも、作っている作品は白い背景が似合うものばかり。私にとってはたまたま素材が土着感を匂わせているのだと思う。地域性はあまり感じられないと思っている。

もとい、橿尾作品を橿尾さんの生まれ育った自然環境の中に置くことで、なんだか別の意味を持ってしまった。そのように映された、移ってしまったのだろうか。
土田さん自身が生命力と男性さにあふれた方なので、その要素が乗り移ってしまったのだろうか。そのように映された、乗り移ってしまったのだろうか。

オブラートに包まれていた性的な意味合いは、土田さんが撮影したことであっという間に露出。自然の勝ち負けではなく、橿尾作品は自然を取り込んだ、違うパワーを得たのだと思う。橿尾さん自身、これを「屹立した」と発言されていた。言葉選びもさすがである。

ここでふっと私の頭をよぎったのは、青木野枝さんの作品である。
彼女の作品を見て、自然のパワーを取り込めなかった記憶が私にはある。
妻有トリエンナーレで見た、がっかり作品ナンバーワン。
申し訳ない、ここまで歩かせておいて、これかよ、と。がっかりした顔の人たちが戻ってくるので、なぜだろうと思っていたのだが、これだったんだ。

詳しくはこちら 2015年大地の芸術祭レポート
https://www.rikotaro.com/archives/5874

しかし青木作品は、ギャラリーにおいては相当な力を秘める。爆発しそうな、静かにたたえた力というか。この人の作品はホワイトキューブ向きなんだな、と橿尾作品の言葉を聞いて思った。

私の円卓は、福井の作家さんたちばかりだったので、対談の話で盛り上がることしきり。作家には暗にそういうモチーフを持ってしまうことも語っていた。

土田さんがこれまでに何度か「橿尾作品はエロチシズム」発言をされていたので、メールや会話でお話くださったこともふまえて、
「うかぶ、ゆれる、そそり立つ、」と小さくサブタイトルをつけたんですよ。

橿尾論は、いっても60年代の評で終わってしまっている。90年以降、令和の今も新作を作る作家には新しい言葉と解説が必要だと思う。それは年齢ではない。

60年代の作品を、ひとりのカメラマンが野外で撮影することで、持たされた意味。
覆された視点。それは本当に作家が意図した作品か、それともカメラマンの視点に私たちが見させられているのか

ここでの考察で語り終えることはできない。

追記

今回は個展チラシとDMも担当させてもらった。土田さんがこれまでに何度か「橿尾作品はエロチシズム」発言をしていたことをふまえサブタイトルに「うかぶ、ゆれる、そそり立つ、」と小さく付けた。分かる人だけ分かればいい、かなと。

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