無題 思考停止と継続と

整理をしたい、というのは気質なのか先天的なものなのか性格なのか血液型のせいなのか。

物理的にあるものを片付けたい、Googleフォトにたまっている写真を整理してブログにもアップしたい、

人間関係の整理まではいかないが、仕事についてはそろそろ整理が必要になってきた(終活ではなく)そんな兆し。

思い浮かぶままにブログに書くのはとても恥ずかしい。この駄々洩れ感覚はあまりしちゃいけない気がする。

誰に読ませるわけでもないし読んでほしいわけでもないが、公開するからには読まれていると思っている。

最近、それほど親しくないが親しくなりたいとう方とお会いして話す機会があった。お酒が入ると話が断片的になり、私も何を話していたのか覚えていない。たぶん適当なことを話していただろうな。

人は人に話をしながら自分のことを整理していくのだ。それがインタビューであり、話し手の人は自身の思考に気づきながら話をしてくれる。

私は人に聞いてばかりの仕事なので、聞かれるのがとても苦手だ。反対の立場になったことが数回あるが、苦手だな、と思った。だから普段私のインタビューを受けてくれる人はなんてすごい人なんだろう、整理ができている人なんだろう、と尊敬する。私だけが思考と立場の整理ができてない人のような気持になる。私は自己肯定感がかなり低い。

Twitterにはたまに思考の断片を残すようにしている。

昨今からアート関連の会合や話し合いに呼ばれることがありお手伝いもしている。

この会合は私の思考と私の仕事の揺さぶるのである。これは向き合わねばならぬ私の問題だ。

作家はなぜ作るのか、という問いを周囲から投げかけられ、自身にも投げかけているであろう。私は作る立場ではない。見る立場だ。

なぜ見るのか、を投げかけられる。なぜかかわるのか、ともいえる。

アートが好きなのは私の考え方の一部がそこにあるからだ。すべでではない。

作品(もしくは作家)に対峙して自分を見つめなおし、この世界を知る、知りたいための単なるエゴなのである。

鑑賞は自分勝手の自己満足にすぎない行為。作家ではない自分が作品を見て思いかえすだけのもの。エゴだとおもう。

世界を知るという点では、ドクメンタやベネチア、ヨーロッパ、韓国の美術展を巡った時、初めて世界を知ったというほど衝撃の作品が多かった。
例えば第二次世界大戦のナチスの行為について、私は書籍や映像でしか知らなかった。しかし90年代のドイツではまだその遺恨は色濃くあって、テーマとして扱う作家も多かった。
作家や国民によこたわるナチスの行為について内なる悔いと該当者への憎しみにまみれた、それが写真でも書籍でもなく私は作品を見て知った。
世界中のどこかで起きている戦争のことも、である。世界を知ることができた一つの経験があった。

面白い、楽しい、見て美しい、という作品ももちろんある。
私が抱いた感情とその価値観を隣と人と語って、違いや同じ個所を共有できるのが楽しい。そんなに語るべき人いないけれども、SNSはそれをつなげる役割をしてくれた。

うつくしい世界を知ること、表現があること、知ることは人間の内面を深く充実させる。
知らないということは、人生と時間をもったいなくさせている。うまく置き換えて話できれば、地方の人のアートはよくわからない 、を払拭できるのだろうけど。

私はアートを子どもたちのためにしないし子どもたちに向けてもしないし、子どもとするために私がやるのである。子どものためにするって私自身はおこがましくてやれない。

同じように町のためにもしないし町を盛り上げるためにも使わない。結構突き放して考えている。アートは分かち合うものであるが、利用するものではない。ツールや手段としての利用がとても危ういなと考えている。

鑑賞の感想は押し付けないのが一番だ。鑑賞の感想を共有するのがいい。視点がちがう、見方が違う、違いが一番わかるのが感想。

ああ、やはり話があちこちいくな。私の仕事=日替わりジョブチェンジャーと同じだ。

ここからつなげる必要性がある。文体も切れ切れでここからである。

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