ヤノベケンジさんは、カウベルにとってキーマンのひとりです。10数年前、ヤノベさんが水戸芸術館で企画したガチャポンプロジェクトに、カウベルが応募、投稿(次点繰り上げだったけどね)。水戸芸術館まで来てくださいと言われましたが、行けなかったので、商品紹介ビデオを作って送付したわけです。ビデオ制作を手伝ってくれたのが、ギャラリーG2でした。
その後、ヤノベさんが金沢芸術村で作品を披露しとき(21世紀美術館のプレイベントだったと思う)、会いにいきました。水のタンクの作品にも、私、飛び込んできました。
ヤノベさんは、“90年代は、ガイガー・カウンターを装備した《アトムスーツ》を自ら着用し、原発事故後のチェルノブイリを訪れるなど、世紀末的なサバイバル・プロジェクトで注目を集めた。“”作家です。
今回の愛トリでは、ヤノベ作品は、メインイメージであり、そこかしこにサンチャイルドが現れます。ビジュアル的に人を惹きつけるキッチュさがあるから、であろう起用は商業的にも正当です。総合テーマ「揺れる大地」後の希望としての暗喩にも思えます。
でも、東日本大震災があってから、90年代に行っていたプロジェクトの「見られ方」が変わってしまいました。本人の意図するところでもなく、誰の扇動でもなく。震災後の発表だったがゆえに、震災前のイメージが薄れていまい、90年代のアイロニックな印象が、今では現実の批判ともとれ、少し作品が落ち着く場所を無くしているようにも見えました。
愛知県立美術館の展示は、「震災」前後、「原発問題」を感じさせる作品が多くありました。それが、作家の意図するところでなくても。「揺れる大地」という総合テーマに引っ張られたからなのか、キュレーターが匂わせるからなのか。作品を見て何を言いたいのか分かる、という分かりやすさはあったと思います。
震災も、原発も、鑑賞者自身の「その場にいたか」「その町に住んでいるか」という自身の背景によってかわります。
アップはしなかったけど、米田知子さんの写真、建設予定のリアス・アーク美術館の学芸員が撮影してきた震災の町の写真が、一番印象に残りました。つまり、今の美術表現は、自然の驚異の痕跡には劣るということでしょうか。絵の具もなにも施して無くても、その一枚が、作品を超えてしまう。
さらに、私は原発銀座の福井県に住んでいます。原発のニュースは良いことも悪いことも日常の情報で、それが普通だと思っていました。私が決めたことでもないけど、ここに住んでいる覚悟があります。それがゆえ、作家たちが表現しようと思っている「震災の何か」「エネルギーの何か」が、ピンときませんでした。持っているか、持っていないか、そこで育ったか、という身体的な感覚に突き刺さるものがなかったのです。突っ込みの弱いインタビュー記事のような感じ。
最近やっと、作品を見たときに受ける「身体的感覚」というものが少しずつわかり始めてきました。私が作品と身体に取り込めるかというちょっと怖い体験なのですけれども。そこに「時間的感覚」を自由自在に取り込めることが出来たら、それこそイッチャッタ体験ができるのでしょう。私が見たいとおもうものはそこにあるのだと思います。
いまいちどっしり来なかったな-、と読み取り力の弱い私の能力をさておき、そう感じた愛知トリエンナーレ@名古屋編は、逆に、私が見たいとおもうもの、に気づかせてくれたよい展覧会でした。といっておこう。