愛知トリエンナーレ2013@愛知県芸術文化センター

サンチャイルドがお出迎え。男の子とも女の子とも見えるし、うちの戦士の幼い頃にも似てるな。/ヤノベケンジ
サンチャイルドがお出迎え。男の子とも女の子とも見えるし、うちの戦士の幼い頃にも似てるな。/ヤノベケンジ
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ヤノベケンジルーム。動物をモチーフにした脚の椅子が並んでます。
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輝くサンチャイルドさん。
亀を撮影する女子を撮る私。アート系女子(一眼レフカメラ持ち)が目立った会場内でした。
亀を撮影する女子を撮る私。アート系女子(一眼レフカメラ持ち)が目立った会場内でした。

 

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愛トリ開催のオープニングでは、ここで本当に結婚式を挙げたカップルがいます。上部にあるのは北野武画伯の絵です。ヤノベケンジルームで一番見応えがあったのは、この会場(空間)全体を作る過程を定点観測で撮影した動画だったと思います。

ヤノベケンジさんは、カウベルにとってキーマンのひとりです。10数年前、ヤノベさんが水戸芸術館で企画したガチャポンプロジェクトに、カウベルが応募、投稿(次点繰り上げだったけどね)。水戸芸術館まで来てくださいと言われましたが、行けなかったので、商品紹介ビデオを作って送付したわけです。ビデオ制作を手伝ってくれたのが、ギャラリーG2でした。

その後、ヤノベさんが金沢芸術村で作品を披露しとき(21世紀美術館のプレイベントだったと思う)、会いにいきました。水のタンクの作品にも、私、飛び込んできました。
ヤノベさんは、“90年代は、ガイガー・カウンターを装備した《アトムスーツ》を自ら着用し、原発事故後のチェルノブイリを訪れるなど、世紀末的なサバイバル・プロジェクトで注目を集めた。“”作家です。

今回の愛トリでは、ヤノベ作品は、メインイメージであり、そこかしこにサンチャイルドが現れます。ビジュアル的に人を惹きつけるキッチュさがあるから、であろう起用は商業的にも正当です。総合テーマ「揺れる大地」後の希望としての暗喩にも思えます。

でも、東日本大震災があってから、90年代に行っていたプロジェクトの「見られ方」が変わってしまいました。本人の意図するところでもなく、誰の扇動でもなく。震災後の発表だったがゆえに、震災前のイメージが薄れていまい、90年代のアイロニックな印象が、今では現実の批判ともとれ、少し作品が落ち着く場所を無くしているようにも見えました。

線画と色彩の組み合わせに目を奪われますが、東京大空襲を描いた作品。/岡本信治郎
線画と色彩の組み合わせに目を奪われますが、東京大空襲を描いた作品。/岡本信治郎
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空間に置かれているのではなく、浮かんでます。ピアノ線で吊られていて、人が入ったり、わずかな風でゆらゆら揺れる作品。
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よく見ると一個一個が建物になっています。
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海岸に流れ着いた漂流物を修復する作家の作品。宮城県の作家は、震災前からこうした作品作りを行い、震災後も続けています。解説がなくても震災が本人の意図に関わらず作品の意味を変えたことを、誰もが感じられる作品でした。/青野文昭

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崩れ去る一瞬の時を止めてしまったような作品。発泡スチロールでできています。もろそうな、お豆腐のような印象を受けます。名古屋市市政資料館の地下留置所をモチーフ。/ソ・ミンジョン
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いわんともなくも、この4つの建屋が、どこを意味しているのかわかるでしょう。“建屋に和風屋根を載せる「福島第一原発神社~荒ぶる神を鎮める~」”。/宮本佳明
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奥の写真が作品です。CGじゃなくて、合成でもなくて、実際にやる、ってところが面白い。その種あかしもしているわけです。/フィリップ・ラメット
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キッズトリエンナーレの部屋。時間外でしたが、見学をさせてもらいました。ワークショップの進め方やネタが、かなり参考になりました。スケール感って大事だねえ。
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はじめるまえは新聞紙が貼られていたけど、会期末、もうこんな感じに。便器が一番こってりしている、とスタッフの人が笑っていました。普段出来ないことをしたくなるものです。

愛知県立美術館の展示は、「震災」前後、「原発問題」を感じさせる作品が多くありました。それが、作家の意図するところでなくても。「揺れる大地」という総合テーマに引っ張られたからなのか、キュレーターが匂わせるからなのか。作品を見て何を言いたいのか分かる、という分かりやすさはあったと思います。

震災も、原発も、鑑賞者自身の「その場にいたか」「その町に住んでいるか」という自身の背景によってかわります。

アップはしなかったけど、米田知子さんの写真、建設予定のリアス・アーク美術館の学芸員が撮影してきた震災の町の写真が、一番印象に残りました。つまり、今の美術表現は、自然の驚異の痕跡には劣るということでしょうか。絵の具もなにも施して無くても、その一枚が、作品を超えてしまう。

さらに、私は原発銀座の福井県に住んでいます。原発のニュースは良いことも悪いことも日常の情報で、それが普通だと思っていました。私が決めたことでもないけど、ここに住んでいる覚悟があります。それがゆえ、作家たちが表現しようと思っている「震災の何か」「エネルギーの何か」が、ピンときませんでした。持っているか、持っていないか、そこで育ったか、という身体的な感覚に突き刺さるものがなかったのです。突っ込みの弱いインタビュー記事のような感じ。

最近やっと、作品を見たときに受ける「身体的感覚」というものが少しずつわかり始めてきました。私が作品と身体に取り込めるかというちょっと怖い体験なのですけれども。そこに「時間的感覚」を自由自在に取り込めることが出来たら、それこそイッチャッタ体験ができるのでしょう。私が見たいとおもうものはそこにあるのだと思います。

いまいちどっしり来なかったな-、と読み取り力の弱い私の能力をさておき、そう感じた愛知トリエンナーレ@名古屋編は、逆に、私が見たいとおもうもの、に気づかせてくれたよい展覧会でした。といっておこう。

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